陰の側から望むこと

 私は暗く鬱屈した人間で、活気がない。それはもう変えられないのに、他人からそう思われるのが嫌で、無理矢理楽しそうにしたり、無邪気に明るく振舞って見せたりしている。疲れたなあ。それすら最近は上手くいかない。暗く病的な人間の居場所は、社会の中に存在しない。文章や音楽や絵や写真の実力がある人、あるいは美男美女が、時々目立って暗く輝いているけれど、ただ暗いだけの人間は誰からも必要とされない。誰にも何にも興味がないくせに、一丁前に必要とされようとしているのかと思うと笑ってしまうけれど、違う、ただここに居ることを否定されたくないだけ。認められたいというより、許容されたい。関心は持たないでほしい、そっとして、どんな色の視線も向けないで欲しい。

 

 

空港からのバスの中

 今の私には何もない。行動で外殻だけでも作り出すこともできなければ、肝心の中身だって空っぽだ。無価値。つまらない人間になってしまった。昔は社会の役になんて立ちたくないと思っていたけれど、実際ここまで無能な人間になるなんて。恥ずかしい。人間の形をしているが、肉があるだけという感じ。ここがジャングルなら真っ先に死んでいる。若くして交通事故で亡くなった人のニュースを見ると、ああ、羨ましいな、と思う。

 空港から帰るリムジンバスに乗っている。バス座席の頭部を覆うスモーキーな水色のカバーが、日が沈んだ後の仄暗い海と空のように見える。

 鳥取で、砂と海を見てきた。砂漠の疑似体験が出来るかと思ったが、砂丘砂丘だった。巨大な砂の塊のてっぺんから深い青色の海を見下ろし、全身を叩く砂つぶの嵐に向かって歩いた。きめ細やかな砂で出来た丘の稜線が、横たわる女の体のように見えた。

 遊覧船に乗った。波が高く、カヤックも小型船ツアーも出来なかったが、かろうじて遊覧船だけは便が出ていたのだ。日本海を見るのは初めてだった。かなり揺れますよ、と言われ、実際予想の5倍は揺れた。胃と波のタイミングに意識を保っていないと、すぐに持っていかれそうだった。船は上下左右に傾き跳ねて、ジェットコースターの浮遊感を千切って何度も重ねたようだ。船乗りにならなくて良かったと思った(進路に悩み悩むのに疲れ、一度本気で船乗りになろうかと考えたことがある)。ワンピースやHUNTER×HUNTERの荒れた海の描写を思い出した。大きく高い波の水面を、太陽を反射した光の線が細く加速して、波のてっぺんで一つの束になり、光の道のように見えた。蟲師に出てきた光酒の川は、こんな感じだろうか。人は海に憧れ沖に出るが、結局大地に帰ってくる。搭乗員の人が説明してくれた海岸の岩場の名前や歴史よりも、ただ何もない海の水平線と大きな波の造形を何度も思い出す。

 

 

 

皮膚と心

  去年の冬に書いた文が下書きに残っていたので、少し書き加えて載せておく。

 

 11月も半ばを過ぎて、夏の初めに買った化粧下地が切れてしまった。肌の乾燥が酷いのでベースメイクを見直そうと思いつつも、小心者なので、中々新しい物に手を出せない。いつも思考停止の末、同じメーカーのパウダーファンデーションと、セットの下地を使い続けている。

 ファンデの代わりにBBクリームを試す。悪くない。少し続けてみようと思う。

 

 私はアトピー持ちだ。子どもの頃は手のひらと関節に留まっていた皮膚のざらつきは、ここ2年ほどで徐々に体全体を侵し始めた。

 昨日までは白かった肌が、ふと気がつくと赤黒く染み、きめが乱れ、滑らかさを失う。侵食された皮膚は、二度と元には戻らない。このぞっとするおぞましさが、理不尽が、絶望が、お前にわかるか?

 

 いつも夢見ている場所がある。そこに裸足で踏み入れると、足の裏がひやりと冷たい。奥には透明な液に満たされた柩があって、その清く緑がかった水に触れると、柔らかな羊水のように私を受け入れる。静かに全身を沈めると、生々しく皮膚に馴染んでいく。不思議な液体に包まれて、深く、長く息をつくと、突然バチッとした痛みが電撃のように脳天から足先までを駆け抜けて、ハッと顔を歪める。おそるおそる目を開けると、傷だらけで醜かった私の体は、しなやかで美しく、夢のような身体に生まれ変わっている……。

 

 そんな夢遊から覚めた私は、じっと手を見る。「お前の手、おばあちゃんみたいだな。」小学生の頃、クラスメイトに言われた言葉が忘れられない。巌のように年を重ねた老婆の手は美しくても、私はたったの7歳だったのに。乾燥してひび割れた皺だらけの両手。関節は炎症し、指には薄い縦線が何本も刻まれている。無意識に掻きむしった爪の隙間に、赤黒く滲んだ垢がこびり付く。熱を持った痒みがどうしようもなくて、叫び出したくなる。

全身をざわざわと巡る不快な掻痒感をなだめるために、皮膚科でもらった軟膏を塗りたくる。大丈夫、これを塗れば、必ず効く、絶対に良くなる、プラセボでも何でもいい、藁にも縋る気持ちで、おまじないのように胸の内で唱える。

 子どものように泣き出したい。大人になった私には、もう誰も、やさしい指先で薬を塗ってくれたりなんかしない。

 

 心と乖離する自分の身体が憎たらしい。かといって、常に絶望しているというわけでもなく、冴えない顔なりにメイクを楽しんだり、特に露出を気にせず半袖やノースリーブを着たりもしている。

あまりに長くこの残酷な皮膚と付き合ってきたせいで、多少の肌荒れには鈍感になってしまった。それって痛くないの、などと聞かれると、ああそうか、これはふつうではないのだった、と気づかされてしまう。友人達と温泉旅行に行ったときは、少し辛かった。

 

 侵食は今も広がっている。ゆるやかに死に近づいていく。いつか肌の様態に年齢が追いつくまで、時折発作のように襲いくる絶望と付き合いながら、なんとかやっていくのだろう。夢に見た柩には、決して辿り着けない。

 

 

 昨日見た夜空のことを考える。嘘、空なんて見えなかった。先週梅雨入りが宣言されて、フライングしていた五月の夏日が嘘のように、ひんやりした天気が続いている。

 昨日は一日雨だった。バラバラと鳴る雨粒にアスファルトは濡れ切って、夜のネオンをきらきらと弾いていた。道路のくぼみのあちこちにできた水たまりが、信号や街灯やビルの光を含んで、滲み、乱反射する様をみて、オーロラのようだと思った。

 砕かれた石や、砂の粒や、遠いどこかで掘り返された哀れな土たちが、人工物に混ぜられ敷き詰められた黒い地面は、冷たく沈黙し、人々の足音を吸収する。雨の薄膜に映る夜空は、決して石粒たちの前に姿を表すことはない。

 帰路を急ぐ人間どもに踏みしめられる藍色の空は、ものも言わず、雨音だけを響かせながら、せわしない駅前の雑踏を映していた。

2019.04.30という日、その翌日

 昨日と同じく、7時に起きて二度寝、9時に起床する。スーツを着てどこか山奥の田舎の村へ、バスで実習の下見に行く夢を見た。霧めいた山の緑や土や空気の湿り気がやけにリアルだった。

 昨日は一日中小雨とぼんやり熱を持った湿気た曇り空が続いていたが、今日はいい天気だ。雨の予報は外れたらしい。

 母は仕事で、居間に父がいる。お は よ う、おはれいわ!などとふざけてみる。つまらない。

 味噌汁を飲みながら朝刊を眺める。元号が変わっている。何面にもわたって天皇陛下改元、時代を振り返り、未来の展望を語る記事が並んでいる。私の日常は変わらずとも、世の中は動いている。

 紅茶を飲む。学校に行くか迷う。うだうだしていたら、父に10時過ぎても寝巻きだからアウトだと言われる。聞いてない、そんな新ルール。今から出かけると移動中にライブ中継が始まってしまうので、家でネットを見ることにする。10:20に兄を叩き起こす。ベッドに並んでパソコンでYouTubeを立ち上げる。

 儀式とは、文化だなあと思う。知ることで、信じることで、重ねてきた歴史を背負うことで、初めて意味を持つ。あの舞台に立ち、台に器が置かれた瞬間、あの方の人生が変わる、抽象になる、と思うと、不思議である。

 二分された画面の半分にライブ映像、もう片方にTwitterのタイムラインが流れている。ライブ画面の下にはコメントが次々と表示されては消えていく。モブ、という感じがして良い。私も大衆のひとりである。いつかこの日が歴史の一場面として教科書に載る頃に、私はこのなんでもない瞬間を思い出せるだろうか。部屋にこもってベッドで兄とダラつきながら、この奇妙な状況をRPGに例えて冗談を交わしたこんな時間を。

 せっかくお弁当を作ってもらったけど、今日は家で食べることにする。申し訳ない。Twitterを見ながらコーヒーを飲む。tofubeatsのRUNを聴く。せっかくなので今日の勉強は憲法の章を進めることにする。崎山蒼志の五月雨、夏至、国、平行する夜を、を聴く。

 勉強に身が入らない。下書きに残っていた小話の続きを書いてみる。歯並びの悪いくたびれた男の話。全然面白くない。今日は一日が長く感じる。

2019.04.30という日

 今朝は7時に目が覚めたけれど、ダルくて活動する気になれなかったので二度寝、9時に起きる(私の中ではマシな方)。

 父と母がいる。お は よ う と言うと、父が渋い顔をする。我が家では10時までは「おはよう」、それ以降は朝とは認めないので「こんにちは」と挨拶するルールがあり、休日は早起きの父と寝坊助な私との間に妙なバトルが起きるのが恒例になっている。父は今度白内障の手術を受ける。髪を洗えないのが嫌だとボヤいている。

 ごはん、味噌汁、切り干し大根、茄子とひき肉のチーズ焼き、ハムエッグを食べる。母の機嫌がいい。昨日祖母の家の片付けの手伝いの帰りに、叔父さん伯母さんとカラオケに行って、褒められたらしい。あいみょんと米津玄師を歌ったそう。私よりも流行の王道を行っている。昔は洋楽ばかり聴いていた母は、近頃は私の影響を受けて邦ロックを聴くようになった。当の私は微妙に違う路線に走っているので、2人の流行には若干のズレがある。

 学校で勉強するか迷う。人間っていいなを口ずさみながら紅茶を入れる。このまま家にいてもしょうがないので、気合いを入れて支度をする。

 音楽を流す。tofubeatsのRIVER、すてきなメゾン、DAOKOのもしも僕らがゲームの主役で、tofubeats×Perfumeのふめつのこころ、ラブリーサマーちゃんの202。平成生まれInternet育ち。

 自転車をこぐ。やっぱり外に出て良かった。雨は上がってねっとりした空気だけど、新緑がピカピカしている。ヒートテックを着込んで、薄いリブセーターとミリタリジャケットとジーンズ。動くと少し暑い。

 何ヶ月も前から終わりゆく元号のカウントダウンお祭り騒ぎが始まり、いい加減聞き飽きてしまった。でも今日が歴史の節目となる日には違いない。別に何かが終わるわけでもない、変わるわけでもないのに、人間の、特定地域の、どこかの文化人が寄り集まって決めた時代のラベルに対して、こんなにも感情が動くのは面白いと思う。人間の集団が生む文化というものは不思議だ。

 自転車で風を切りながら、今日も昨日も変わらない駅までの景色を眺める。もし世界が終わるなら、この景色はどんなに感動的なものになるだろう。ありふれた感慨にふける。現実には時代の名前が変わるだけだ。そこそこに美しく、案外嫌いじゃない並木、草花、ツタヤやドラッグストアの並ぶ道。ゆっくり歩くおばあさん、走る子どもたち。

 駅の乗り換え口でこんにちはーと繰り返しながらティッシュを配っている。普段は避けてしまうけど、今日は受け取ってみた。不動産屋だった。就学前くらいの女の子がネコミミをつけてニコニコと母親の先を歩いている。サブカルチャー・ニッポン。本屋に寄り、参考書を買う。

 大学で勉強。17時前に教室を抜け出して、YouTubeで退位の儀のライブ中継を見る。美しい。遅い昼食を食べながら見ようと思っていたが、あまりの神聖さに手を止めて姿勢を正してしまう。どうか安らかであってほしいと、願わずにはいられない。昼間、改元はただのラベル変えだなんてことを考えたが、とんでもない。私たちには単なるお祭り騒ぎかもしれないが、この放送に映し出される方々にとっては、それはどんなに大きなことか。愚かな一国民たる私は、小さなスマホ画面に映し出される光景に胸を打たれながらも、好きなアニメで描かれる姫君の心情に重ねて二次元に思いを馳せてしまう。不敬である。どんなシリアスな状況や大事な場面でも、心の中心を占める思いとは別に、妙な思いつきや不謹慎な思考が分裂していくので面白い。

 教室に戻って少し勉強して、早めに帰ることにする。乗客が私だけのバスに乗る。180円で貸し切りバスに送ってもらえると思うと贅沢。お礼を言って降りる。薄いスニーカーを履いてきたので、かかとで水たまりを踏んで少し濡れてしまった。はやくうちに帰ろう。今夜はカレーだ。

 

 

 

 

 

樹懶の朝は長い

 10時に目が覚めて、それからいつまでも布団の中でじっとしていた。喉がカラカラに乾いて頭は重く、何も考えられない。ツイッターの進まないタイムラインを弾き、微睡み、部屋に差し込む光を眺める。精彩を欠いた意識に身を委ねていると、体が根を生やしてしまう。起き上がらねばと思うが行動に移せず、結局いつも勝手に体が動いてくれるのを待っている。脳の指揮系統のことがわからない。ゆっくり体を起こす。頭がぐらつくのでしばらく上半身を起こしたまま重力に体を慣らす。ベッドを降りて、ようやく起床。部屋の鏡にナマケモノが映っている。時計を見る。14時24分。とうに昼を過ぎていた。